貴殿は、茶を嗜まれるか?茶で戦国時代と言えば、千利休殿じゃな。秀吉殿の逆鱗に触れて切腹でこの世を去ったことが、単なる茶頭を越えた傑物じゃということを物語っておる。
権力に屈せずに命をかけて己を貫き通す覚悟があったからこそ、現代にも続く茶道を大成させることができたのであろうな。
さて、貴殿はもちろん「一期一会」という言葉をご存知であろう。この言葉、実は利休殿の茶会に対する考え方がその語源であるとも言われておる。
茶会ではたとえ同じ面々が何度か会することがあったとしても、今このときの茶会は二度と繰り返されることのない、一生に一度の会であるから、亭主も客もともにその心づもりで、もてなし、もてなされねばならん、ということだそうじゃ。
わしは茶道に疎いもんじゃから、面倒な作法が多うて窮屈で、ありゃとても楽しめるもんではないと思っておったんじゃが、この「一期一会」の思いを知るに至って、多少見方が変わった。
いろいろある作法は、茶会の場の雰囲気を良うして、その場に会する人に心から楽しんでもらうためにあるのではないかとの。
じゃから「亭主も客も」という言葉が大切なのじゃ。もてなす亭主が身勝手な振る舞いをするのは論外じゃが、いくら亭主が精一杯もてなしても、客が身勝手であれば、場の雰囲気は壊れる。それ故、茶道では客にも作法があるんじゃないかの。
もてなす亭主ともてなされる客が一体となって良い場をつくり上げるのじゃ。
じゃが、作法だけ守っておっても心から楽しむことなどできはせん。作法はあくまで作法でしかないのじゃ。大事なのは、そこに心が宿っているかじゃ。
今で言えばマニュアルどおりに言われたとおりに言葉を発して、作業をしている状態と同じじゃな。決まり事じゃからと、仕方のう、無愛想に「いらっしゃいませ」と言われたらどうじゃ?その先、不愉快になって楽しむことなどできんであろう。
マニュアルは客に喜んでもらうためにあるはずじゃ。それが逆効果になるならマニュアルの意味などないわのぉ。
組織の中でも同じじゃ。皆の衆と一体となって良い場づくりをしようと心がけておるか?
何気ない「おはよう」の挨拶もひとつの礼儀作法。じゃが作法が義務になっておらんか?そこに心は宿っておるか?