長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第14話 倹(上)

尊徳先生が仕法実施の根幹とされていた「かなえの足」、覚えていらっしゃいますでしょうか?

「勤・倹・譲」の3つ

すなわち、

衣食住になるべき物品を勤めて産出してむやみに費やさず、他に及ぼすことです。

すでに勤、譲についてはお話しさせていただいておりますので、今回は倹について触れさせていただきたいと思います。

倹は倹約の倹ですので、節約する、ケチる、ことと思われるかもしれませんが、決して単に節約する、ましてやケチることを表すのではありません。

そこはまた次回にでもお話ししたいと思いますが、だからでしょうか、倹ではなく「分度」と言われることの方が多いようです。

天下には天下の分限があり、
一国には一国の分限があり、
一郡には一郡の分限があり、
一村には一村の分限があり、
一家には一家の分限がある。

これは自然の天分である。天分によって支出の度を定めるのを分度という。末世の今日、人々はみな、ぜいたくを追い求めて、分度を守るものはきわめて少ないが、分度を守らないかぎり、大きな国を領有してもやはり不足を生ずるし、分度を知らない者に至ってはなおさらのことで、たとい世界中を領有したところでその不足を補うことはできない。

なぜならば、天分には限りがあるが、ぜいたくには限りがないからである。いったい、分度と国家との関係は、家屋と土台石との関係のようなものだ。土台石があって始めて家屋が営造できるのと同様に、分度を定めた上で始めて国家は経理できる。分度をつつしんで守りさえすれば、余財は日々に生じて、国を富まし民を安んずることができるのだ。

訳注 二宮先生語録[6] 一円融合会刊

つまり、自分の身の丈にあわせた暮らしぶりに努めなさいよ、ということです。「入るを量って出ずるを制する」です。

欲しいものを今すぐ手に入れたいからと、これとは逆に「出ずるを量って入るを定める」ようになるからおかしく
なる、それが貧苦の元と尊徳先生は言います。

財政が立ちゆかなくなってきたから増税して多く徴収すればいい、欲しいものは借金して手に入れればいい、といった考え方は種も蒔かないのに刈り取ろうとするのと同じで、そもそもが無理なことなのです。

将来の収入を見込むのであれば、捕らぬ狸にならないよう、状況に惑わされることなく、しっかりとその根拠となる種を蒔いたうえで、確実に収穫できるようにしておかなければなりません。

尊徳先生は過去何十年かの統計を調査し、今後の好不況も考慮し、さらに現地を実地調査して長期的な分度を定め、それに基づいて仕法に取り組むようにされていました。

今、目の前だけ良しとする考え方が、それこそ将来の芽を摘んでしまうのです。

これは収入支出といったお金にからむことだけに言えるのではありません。

その場しのぎのことをしていないだろうか。
将来のために、今何をしているだろうか。
自分では何もせず人にばかり求めていないだろうか。

分度はそんなことを考えさせられます。

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