長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第7話 報徳(下)

前回からの引き続きで今回も報徳です。

どのようにすれば恩徳を感じることができるか、その意識を常にお持ちの方にしてみれば問われている意味すら分からなかったかもしれませんが、わたしのような凡人はすぐに当たり前と思ってしまい、恩徳に報いるどころか、逆に不満に思ったりすることもあるわけです。

自分に都合の良いように解釈する我がままですね。その心を取っ払って、受ける恩徳を感じるために、どうすれば良いか、という問いかけだったのですが、

たとえば毎朝太陽に手を合わせる、毎日一行でもその日にあった良い出来事を記してみる、などでその時間を意識的に常に持つようにしてみたり、

たとえば今まで自転車だった道のりを歩いてみて、非日常のいつもとは違う体験をしてみたり、といった簡単なことでもやってみると、感性が上がり、今までとは違う何かを感じられるようになるかもしれないと思ったのですが、いかがでしょうか。

ところで、「恩を返す」ことは何となく分かりますが、「徳に報いる」って?と思われませんでしたか?

以前、報徳学園のお話しをさせていただいたとおり、報徳という言葉自体には子どもの頃から触れてはいたのですが、その意味をわたしが知るのはそのずっと何十年も先に尊徳先生の勉強をするようになってからです。

恩徳という言葉があるように、恩と徳はそれほどかけ離れた意味あいをもつものではないでしょう。

ただ、尊徳先生の言う徳には、「そのものが持つ良さ、特長、能力」といったことが含まれます。

そして「徳に報いる」とは、その良さを引き出す、活かす、という意味があるのです。

一番分かりやすい例は先の引用の語録で言うと、田畑の徳の部分です。田畑の持つ命のもとを育むという良さ、能力を、人が農事に励むことによって活かすということです。

どんな人にも、ものにもそれぞれ徳があります。それを引き出して活かすことが「徳に報いる」ということなのです。

また尊徳先生は、一見良いことなどひとつもなさそうな事柄にも徳は存在すると言います。

荒地には荒地の徳が、借金には借金の徳があると。

身近なところで病気を考えると分かりやすいかもしれません。

病気の徳とは?

日常の有り難さを感じさせてくれる、今までの生活を見直す機会を与えてくれる、心の歪みを正す機会を与えてくれる、などが思い浮かびます。

さて前回冒頭の質問。覚えていらっしゃいますでしょうか?

なぜ食器を洗うのか?についてですが、尊徳先生は次のように言います。

(前略)

人が食事をするには、毎日なべかまや皿、茶わんを用いるが、食べ終わってこれを洗うのは、そのつぎまた使うためだろう。

もし食物がなくなって、このつぎ使う当てがなければ、洗わずにほうっておくに違いない。

これは毎日使ってきた恩徳を忘れたものだ。

このような人は、一生貧困を免れない。たとい餓死しようというときになっても、やはりこれらを洗って戸だなにしまうとすれば、これは毎日使った恩徳に報いるものであって、このような人は必ずその家を富ます。

貧富得失の分れ目は、ただ徳に報いるか徳を忘れるかにあるのである。

訳注 二宮先生語録[141] 一円融合会刊

確かに次に使うために洗ってました。食器が割れてしまって、次に使わないことになったら、洗わず、そのまま捨てていました。衣服もしかりです。

捨てる食器に対して今までありがとう、と思ったことなどありません。せいぜい、割れて残念に思うぐらいでした。

まだまだ物事に対する感謝の気持ち、恩徳を感じる心が足りないようです。

これからはたとえ汚れて捨てざるを得ない雑巾であっても、最後に洗って感謝してからサヨナラしようと思います。

わたしの実践です。

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