長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第2話 積小偉大

苦難の幼少期を過ごした金次郎でしたが、ではその苦難の中からどのような気付きを得たのでしょうか?

大事を成しとげようと思う者は、まず小事を努めるがよい。大事をしようとして小事を怠り、できないできないと嘆きながら、行いやすいことを努めないのは小人の常である。

およそ小を積めば大となるものだ。

一万石の米は一粒ずつ積んだもの。一万町歩の田は一鍬ずつ積んだもの。万里の道は一歩ずつ重ねたもの。高い築山ももっこ一杯ずつ積んだものなのだ。

だから小事を努めて怠らなければ、大事は必ず成就する。小事を努めずに怠る者がどうして大事を成しとげることができよう。

訳注 二宮先生語録[302] 一円融合会刊

これは尊徳先生の言葉を弟子がまとめた二宮先生語録に収められた言葉です。巷間、小を積んで大を為す、「積小為大」と言われています。

尊徳先生は実地でこれを体感して学びとし、そして教えとしています。

金次郎苦難の折、洪水で流失して使えなくなった用水堀があることに気付きます。そこで「よし、ここを手入れして
田んぼにしてみよう」と思い立ち、村内で田植えが終わって余って捨ててあった苗を拾い集めて植え付けてみたところ、秋になんと1俵余の収穫を得たのでした。

一粒万倍日という縁起の良い日があります。米は1粒から万倍(実際には千倍くらいでしょうか)もの実りを得ることからきているようです。だから宝くじ売り場の前を通りかかるとこのフレーズをよく聞くのですね。

この一粒万倍、すなわち積小為大を金次郎は身を以て体感したわけです。

が、ここで終わらないところが金次郎の偉いところで、積小為大から次の学びとなります。詳しくは次回以降お話しさせていただくとして、わたしならこのいわばボーナスのような1俵はウハウハ言いながらその年のうちに食べてしまって、来年もまた捨て苗を拾って同じことをして1俵を得る、

ということをしてそうです・・・。

金次郎はと言うと、この1俵余を浪費することなく蓄えに回し、後に自家の復興を果たすための元手にしたのでした。

捨ててあった苗と使えなくなった土地から自家復興へとつなげる。さらにこれが元になって、のちに藩や村の復興
にまでつながったと考えると、ただ小が大を為す「為大」を通り越して、もはや「偉大」と言えるでしょう。

尊徳先生に限らず、世の偉大な成果を生んできた方の話を聴いても、どうやら、簡単にはできない難しいことが
できるから偉大な成果が生まれるのではないようです。

偉大な成果を生むために必要な鍵は、そこにつながる小さなことを、誰にでもできる簡単なことを、

“誰にもできないくらいに積み重ねられるか”

ではないでしょうか。

尊徳先生の復興の手法(報徳仕法)はまさにそうです。藩や村の人々は復興に向けて決して技術的に難しいことを
求められるのではありません。

できるかできないか、
ではなく、
やるかやらないか
です。

それをやりとおしたところにしっかり成果がついてくるのです。

現代の偉人、イチロー選手の積み重ねた練習量、たとえば、高校生の時、寝る前に10分間以上の素振りを1年365日
毎日3年間欠かさずに続けた、といった話は、

積小偉大

を感じさせてくれます。

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