貴殿は、観察しておられるか?
夏になるといわゆる宿題ということで、朝顔やひまわりの観察日記を付けた記憶のある方もおるじゃろう。わしもその一人じゃが、毎日観ておってもたいした違いがのうてすぐ飽きたもんじゃ。種を植えて芽が出たら、あとは次に観るのは花が咲くときで良いじゃろうとも思うぐらいじゃったわい(笑)
じゃが今考えると、観察ということの大切さがよう分かる。毎日観ておるからこそ昨日と今日の小さな違いにも気付けるのじゃ。
毎日観ておるからこそ「これは明日咲きそうじゃ」、「お、ここにもつぼみができたか」と分かるわけじゃ。もし毎日観ん場合は「ん?この花いつ咲いたのじゃ?」「いつの間にやら枯れておるではないか!」ということにもなりかねんのじゃ。
人もまったく同じではないかのお。
人たらしと言われる秀吉殿の話じゃがの、
明智光秀殿の家臣に、以前、秀吉殿に仕えていた者がおった。光秀殿がその者に秀吉殿の人の使い方について尋ねたところ、その家臣は「それほど他と異なることはありませんが、誰でも少しの功績があると、思いの外の褒美をくだされ、驚くほどでした」と語り、それを聞いた光秀殿は舌を巻いたそうじゃ。
またある時のこと。秀吉殿が戯れで5大老の刀の持ち主を推測したところ、そのすべてを言い当てたそうじゃ。
「宇喜多秀家は美麗を好むから黄金をちりばめた刀、上杉景勝は父の代から長刀を好んでいるから長い刀、前田利家は又左衛門といっていたころからの武功によって大国を領するようになったが、今でも昔を忘れない気風があるので革を巻いた柄の刀、毛利輝元は異風好みだから一風変わった飾りの刀、徳川家康は一剣を頼りにするような気持ちはない。別に取り繕うこともなく、人の目を引くようなものもない刀が彼のものだろう」という具合にの。
少しの功績でも見逃さず驚くほどの褒美を与えるのは、銭の使い方と人心掌握に長けた秀吉殿らしい評価の仕方じゃが、秀吉殿のこの評価の根本には5大老の刀の話のように、人をよく観ておる、「観察」しておるということがあるのではないかの。
その者がどんな働きをしたか、どんな功績を上げたかも把握せずに、ただ単に盲目的に銭をばらまくだけでは人のやる気を上げる効果はあまりないじゃろう。
人が褒美をもろうて喜ぶのは、ただ単に金銭や茶器などの「モノ」を得たからではのうて、己の働きが正当に評価された、認めてもらえたという「心」を得たからではないかの。
じゃから、銭がのうてもあきらめてはならん。人に喜んでもらうためにできることはたくさんあるはずじゃ。ただその根本にある、人をよく観察するということを忘れぬ限りの。
さらに以前にもお話し申した、現場を大事にするということや適材適所ということにも「観察」は通じておる。
幼い頃の宿題もこう考えると役に立つものなのじゃな。物ごとが役立つかどうかはすべて己の意識次第か・・・。