長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第13話 性善説・性悪説

突然ですが、あなたは刃物を人に手渡すことがあったとしたら、柄の部分か刃の部分か、どちらを自分の手に持って人に渡しますか?

世の中で刃物をやりとりするのに、刃の方を自分の方に向け、柄の方を先方に向けて出しているが、これが道徳の本意なのだ。この心を押し広めることができれば、道徳は完全だろうし、人々がみんなそうなれば、天下は太平だ。

刃先を手前にして先方に向けないのは、万一間違いがあったときに、我が身には傷がついても、ひとに傷を つけまいという気持ちなのだ。

だから、万事そのような心掛けで、自分の身上には損をしても、ひとの身上には損はかけまい、自分の名誉はそこねても、他人の名誉には傷をつけまいという精神ならば、道徳の本体は完全だといえよう。

それから先はこの心を押し広めるだけだ。

訳注 二宮翁夜話[174] 一円融合会刊

そう言われてみれば、人に包丁、はさみもそうですが、を渡すときは、自然と柄の部分を先方に向けて差し出しますね。

おそらく%%sei_name%%さんもそうではないでしょうか。

生まれながらに持っている感覚なのでしょうか?それとも、記憶にはないですが、幼いころに誰かに教えてもらって覚えたことなのでしょうか?

性善説、性悪説、という話があります。人は生まれもって善か悪か。あなたはどちらだと思いますか?

何を善と言い、何を悪と言うか。
先だっての話にもありますように、それは主体になる人の一面的な思いこみによって変わってくるものでもあります。

警察から見たら泥棒は悪でも、泥棒から見たら警察は悪。上司から見たら仕事でミスをする部下は悪でも、部下から見たらできない仕事をさせる上司が悪。

かもしれません。

ただ、人が人の世で生きていく限り、世の中全体総意の善悪というものはあるはずです。

それが道徳であり、倫理ではないかと思うのですが、言い換えると、己の欲望を満たすために他を省みない行為を悪、逆に己のみならず他のためにできる行為を善とは言えないでしょうか。

他人じゃなく、他で留めたのは、善悪の行為の対象は人だけではないからです。

刃物を手渡す行為で言うと、刃先を先方に向けるのは悪、自分に向けるのは善、になります。

さて、そこで性善説と性悪説ですが、

社会人になった頃のわたしは基本、性悪説派でした。人は我が儘で自分勝手で自分のことしか考えず・・・
と思っていました。

それから約6年いろいろ経験して、ベティン先生にリーダーシップを学んでからは、性善説派となりました。

いろいろな経験から人は良い面もたくさんあると感じ、またリーダーシップは人の善を信じることが基本だと感じたからです。

さらにそれから約15年いろいろ経験して、尊徳先生の教えを学ぶにつけ、人は生まれ持って善でもなく悪でもない、善悪両方兼ね備えているものと思うようになりました。

ただ、自然は手を掛けず放っておくと、雑草が生え、田畑は荒れ、家は倒壊し、暮らしが成り立たない状況になってしまいます。

同じく人も放っておいたら荒れてくる、つまり怠け心が出て来たり、自分のことだけしか考えなくなったりしやすい
のではないかと思います。

だから教育というものが必要であり、親が、学校が、会社が、地域が、国が、しっかりと手を掛けて人を育てていく、つまり善を引き出す手助けをしていくことが必要ではないでしょうか。

まさしくここも、天道と人道です。

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