長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第10話 誰

前回「勤」についてお話ししましたが、尊徳先生の言う「勤」は、お前たちはただ言われたとおりにがむしゃらに働けば良いのだ、ということではありません。

仕法を実施する覚悟があるかを確かめたように、人が自ら進んで喜んで働くように持っていく様々な工夫をしているのです。

その工夫のひとつはこれもすでにお話しいたしました「鶏晨回邑」、すなわち村を朝早くから巡回することでした。

これは率先垂範を表すものです。

人はいくら正しいことを言われたとしても、「誰」から言われるかによってそのことを受け止めるか受け止めないかの判断をするものです。

このことについて、尊徳先生の面白いたとえ話があります。

ある儒教を教えている儒生が自分の生徒が教えを受けに来なくなったので、尊徳先生から再び学びに来るようにこれを諭して欲しいと相談に来ました。

なぜ来なくなったのかの理由を尋ねると、その儒生がある時、大酒を飲んで酔いつぶれて道ばたに寝ころぶなど醜態を極めたところを生徒に見られたからだそうです。

儒生曰く、わたしの行いが良くないからと言って、内容的に素晴らしい学びまで捨ててしまうのはおかしいのではないかと。さて。尊徳先生はここでこの儒生に何と返したか。

この例え話がわたしは分かりやすくて好きです。が、食事中の方はあまり話の内容をイメージしすぎないように注意してください(笑)。

尊徳先生はこう返しました。

お前さん、腹を立てるでない。私がたとえを引いて説明 してあげよう。

ここに米がある。これを飯にたいて、肥桶に入れたらお前さんは食うかね。もともと清浄な米の飯に疑いない。ただ肥桶に入れただけのことだ。それでもだれも食う者はない。

お前さんの学問もそれと同じことだ。 もとは赫々たる聖人の学だが、お前さんが肥桶の口から講釈するものだから、弟子たちが聴かないのだ。その聴かないのを不条理と言ってとがめられるか。

訳注 二宮翁夜話[夜話22] 一円融合会刊

儒生は陳謝して立ち去ったそうです。

人に何かモノ申すときは、まず自分を振り返ることが肝要です。

どれだけ内容的に正しいことを言おうが、「あんたにだけはそんなこと言われたくない」と相手にされなければ、何の意味もないのです。

人に求める前にすべきことはないか。自分はやらないのに文句ばかり言っていないか。

自分はどんな「誰」でしょう。

そして、

どんな「誰」になるために普段から何をしているでしょうか。

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