長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第17話 実践

あなたは月に何冊、本を読みますか?

わたしは最近、もっぱら電子書籍で読書をしていて、紙の本をあまり買わなくなりました。

電子書籍でもいわゆる積ん読が起こってしまうので要注意です(笑)が、スマホに入れて持ち歩いているので、その時の気分で好きな本を読めるのはいいですね。

ということで、途中でやめて別の本に移る、ということをしたりしていますので、月に何冊と言われると難しいのですが、昨年は年間で54冊でしたから、平均すれば月に4冊といったところでしょうか。

少なっ!と思われたかもしれませんし、多っ!と思われたかもしれません。

それでも読書は量ではありません!・・・・・と、尊徳先生も言っています。

書物を読んで実践しない者は、鍬を買って耕さないのと同じことだ。耕さないのならどうして鍬を買う必要があろう。

行わないなら、どうして書物を読む必要があろう。読書と実践と相俟つことは、ちょうど織物が縦糸と横糸 とあって始めてできあがるのと同様である。

読書は縦糸であり、実践は横糸である。縦糸だけあって横糸がなければ織ることができない。織らなければどうして絹や布ができよう。実践しなければどうして家をととのえ、国を治める仕事が成就できようか。

訳注 二宮先生語録[76] 一円融合会刊

そしてもうひとつ。

教学と実行とが相俟って始めて修身斉家ということがらが成就できる。だから、むかし教学に従った先生や生徒たちは、実行によって教え、学んだらそれを実行した。

たとえば、朝夕こうして水を汲めと手をとって教えれば、それを学んで水を汲んだ。だから水おけはいつも一杯であった。

あるいはまた、毎朝こうして掃除せよと先に立って教えれば、それを学んで掃除した。だから庭にはちりがなかった。

あるいはまた、こうして明徳を明らかにせよと模範を示して教えれば、それを学んで明徳を明らかにした。だから一身一家が治まった。

今はそうではない。口で教えればそれを憶え、憶えればすぐまた口で人に教える。たとえば、ただ、水を汲むがよいと言うだけだ。水おけが一杯になるわけはない。

あるいは、ただ、掃除するがよいと言うだけだ。庭にちりがなくなるはずはない。

あるいは、ただ、明徳を明らかにするがよいと言うだけだ。一身一家が治まる道理はない。

このようなありさまでは、聖人の経典、賢人の解説も何の役にも立たなくなる。嘆かわしい限りではないか。

訳注 二宮先生夜話[78] 一円融合会刊

要するに、何をどのような形で学ぶにしても、実践が一番大事だということです。陽明学で言うところの、知行合一でしょうか。やらないなら知らないのも同然。

いくらレシピ本を読んでも、料理をしない限りひとつも食事はできません。
いくら設計図を見ても、組み立てない限りプラモデルは出来上がりません。

良いことを学んだ、良い話を聞いた、良い本を読んだ・・・だからどうするのか?が必要ですね。

とにかく何でもやってみることです。やるから何らかの結果が出るのです。結果が出るから、そこから学びが得られるのです。

昔、小学校に通っていたわが子の話を聞いたときに、どうも最近の学校は先回りして失敗しないように、何事も起こらないようにと、気を遣いすぎている気がしてなりませんでした。

失敗も学び、成功も学び。経験に勝る学びなしです。

と言っているわたしが、「ただ、水を汲むがよいと言うだけ」にならないようにしなければ・・・。

その一環ではないですが、

「そんなの何が面白いんだ?くだらない」

というふうに、自分はやったこともないのに自分の知識だけで、今までの経験だけで、あるいは価値観だけで人のすることの批評をすることだけはしないように気をつけています。特に子どもに対してやってしまいがちですので!

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