長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第18話 運

翁のことばに、世間の人は、運ということについて心得ちがいをしている。たとえば、柿やなしなどをかごからあけるときは、自然と上になるのもあれば 下になるのもあり、上を向くのもあれば下を向くのもある。このようなのを運だと思っている。

しかし運というものがこのようなものなら、頼むに足らない。なぜかといえば、人事を尽くして成るのではなくて偶然になるのだから、もう一度かごに入れなおしてあけてみれば、みんな前の場合と違うはずだ。こういうのはばくちの類であって運とはちがうのだ。

では運というのは何かといえば、これは運転の運であって、いわゆる回りあわせというものだ。この運転は世界の運転に基くもので、天地に定まった法則があるために、「積善の家に余慶あり、積不善の家に余殃あり。」というように、何べんぐるぐる回っ てもこの法則にはずれずに回りあわせする、それを運というのだ。

訳注 二宮先生夜話[83] 一円融合会刊

運というと自分ではどうしようないものというイメージがありますが、そうではなく、いわゆる因果応報による巡り合わせが運である、ということです。

ですから、運は自分で引き寄せるものだということです。

以前に天道と人道としてお話し申し上げたとおり、人生には大きな出来事、事故、天災、または好不況などあるいはもっと遡って、この世に生を受けたときの環境など、自分ではどうしようもできないことが存在します。

このところの世の中の大変動はわたしたちの生活にも大きな変化をもたらしています。

しかしたとえどのような状況にあろうとも自分の心の在り方や工夫次第で人はより良く生きていくことができるということも忘れたくありません。

松下幸之助氏は、貧乏、病弱、学歴がなかった自分のことを運が良かったと言ったそうです。

天道を知り、受け容れ、人道で努力工夫する。
「ない」ものばかりに目を向けて嘆くよりも、
「ある」ものに目を向けて感謝して、
少しでも良い運が巡ってくるようにしていきたいものですね。

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