長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第20話 立脚地

ようやく暑さも和らぎ、朝晩は涼しくなってきましたが、お元気にお過ごしでしょうか。

世の中本当にいろいろなことが起きていて、先日もイギリスのエリザベス女王がお亡くなりになりました。時代の終わり、過渡期であることを実感します。

果たしてこの先、世の中はどのように動いていくのでしょうか!?

ただ、どのような世の中であってもそれはそれ。天道の中でどのように人道を尽くすかが大事ですから、受け容れて工夫していくしかありません。

さて。

争論がおきるのは、おのおの立脚地を定めないからだ。立脚地を定める以上、何の争論もあろうはずがない。

いま東西を論ずる者がある。東にいる者はあそこは西だと言い、西にいる者はあそこは東だと言う。

米価を論じて、高い方がよいと言うのは売手であり、安い方がよいと言うのは買手である。かぼちゃを論じて、つるがこんなに伸びたと可愛がるのは生えたての時で、つるばかりこんなに伸びてと憎がるのは実を食うころだ。

遠近を論じて、近くてよかったと言うのは使いに行く時で、遠くてよかったと言うのは火事が出た時だ。一切、ものごとを論ずるのにおのおのの立脚地を定めてかかれば、よしあしははっきりして、何の争論もおきるわけはない。

訳注 二宮先生語録[149] 一円融合会刊

この尊徳先生の語録、どう思われますか?

まったくそのとおり!

とは、最初わたしは思いませんでした。それぞれの立脚地があるからこそむしろ争論になるのではないかと思ったのです。それぞれ自分の立場を主張するからこそ、争論になるのではないのかな?と。

米価のところなど考えても、売り手と買い手では必ず高い安いの話になるはずで、売り手は1円でも高く、買い手は1円でも安くと考えるのは普通のことで、だから互いに相容れないのではないかと。

しかし、よくよく吟味して反芻してみると、やっぱり尊徳先生の言うとおりなのかなと思った次第です。

つまり、自分の判断の拠り所をどこに持つかをはっきり定めておかないと、状況によってフラフラあっちに行ったりこっちに来たり、日和見主義で優柔不断、一貫性がなく、人の意見や大勢に流されやすく、それでは人間関係も商売も、ひいては人生もうまくいかないのではないかということです。

売り手と買い手の話も、それぞれがしっかりと立脚地を定めておけば、それに見合った相手を見つけられるはずで、そうすれば高い安いの争論にもなりません。

うちの商品は多少高くても良いものだから、その価値を分かってもらえる人に買ってもらえればそれでいい、わたしは品質は求めないからとにかく安い方がいい、

という具合に。

立脚地を定めておくことがそれに見合った人間関係や仕事を生み、そしてそれに見合った”無理のない”人生を送ることにつながるのではないでしょうか。

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