長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第19話 自力と他力

このコロナ騒動で、外出せずに家にいることが増えた方は多いでしょう。

そして家にいると、結構自由にできる時間ができた方も多いのではないでしょうか。その時間を、何に使われましたか?

掃除三昧、ゆっくりTV、映画鑑賞、あるいは読書に耽った方もいらっしゃるでしょう。

読書と言えば、わたしが読んだ本に、吉川英治著「親鸞」があります。そして尊徳先生が親鸞について語っている一節があることを最近知りました。

そのことを意識する、しないで、自分の中に入ってくる情報も変わってくることを改めて感じました。

ということで、今回は親鸞の一節から。

親鸞は深く後世のことを念慮して、末法の僧侶には肉食妻帯の戒めを守ることができまいと推察し、みずから戒めを破って一宗を開いた。

これは考え違いと言わねばならぬ。戒めを破ってまで末法の僧侶を存続させるよりは、戒めを守ってみずからたおれたほうがましなのだ。

訳注 二宮先生夜話[264] 一円融合会刊

あまり仏教のことについて詳しくありませんが、僧侶と言えば、やはり厳しい修行を経てなる神聖な職というイメージがあります。

親鸞は子供のころから、そのイメージのとおりに、ものすごく厳しい修行をして、それこそ肉食妻帯をしないことは当然で、あらゆる自分をいじめるような難行苦行を経てはじめて衆生を救う聖人君子的な僧侶になれるのだと信じて修行に明け暮れていたのですが、でもある時からそのことに疑問を持ち始めるわけです。

いくら厳しい修行をして自分ひとりがいろいろなことを知って知識を得て悟りを得ようとも、衆生を救うことにはつながらないのではないかと・・・。

それが法然上人という人物に出会ってその悩みから解き放たれ、これこそ衆生を救うものということで、活動を始めるようになるわけです。

その活動が尊徳先生の言う、肉食妻帯の戒めをみずから破って一宗を開く、ということにつながるわけですが、ではその法然上人は何を説いていたか。


それは、「南無阿弥陀仏」とさえ唱えれば、誰でも救われるということです。

つまり、今までの僧侶的考えは、自分で苦行を経て悟りを開いていくことで救われる自力本願。

一方の法然上人、親鸞的考えは、念仏さえ唱えれば救われるという他力本願。

といったところです。信じる者は救われる、ということでしょうか。

さて。あなたはこれについてどう思われますか?

仏教に精通している方からすればもっと違う解釈があるのかもしれませんが、わたし的には、念仏を唱えるだけで救われるという考え方は何となく釈然としません。

一向宗の信徒が南無阿弥陀仏と唱えながら一揆や織田信長との戦いにどれだけ命を費やしたか。果たして彼らは本当に救われたのか・・・と思ってしまうわけです。

和田竜著「村上海賊の娘」にはこのあたりの葛藤も描かれていて考えさせられます。

少し脱線しました。

かと言って、他力を否定するわけでもありません。結局人は自力だけでは生きられず、他力によって生かされているわけですから。

そうして考えると、とどのつまりは、尊徳先生のいう天道と人道に落ち着いてしまいます。

生かされながら生きる、とでも言いましょうか。中庸とでも言いましょうか。

「謙虚さと自信」

そんな言葉も浮かんできました。

いずれにしても、他力に感謝しつつ自力を尽くす。これにつきるのではないでしょうか。

親鸞が幼い頃に詠んだと伝わる詩を最後に。

「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」

今咲いていても明日まで咲いているとは限らない桜の花。思い立ったが吉日。自分ではどうしようもできない大きな流れがあることを認識しつつ、今できることは今やるに如かずですね。

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