長谷川孝のブログマガジン

【武将】第45話 威

近年は花見にも自由に行くことができんかったが、桜は良いのぉ。わしは今年は小田原城の桜を堪能したんじゃが、
お堀の水面に映る櫓と桜の調和が美しかったのぉ。

桜と言えば、秀吉殿の醍醐の花見はさぞ賑やかだったんじゃろうの。千人以上の人々が集ったそうじゃが、権力の象徴じゃな。

さてその秀吉殿の参謀でありながら、秀吉殿に恐れられたほどの才を持った黒田如水殿。前にも何度か登場しておるから覚えておいでかの。その如水殿が大将の“威”ということについて次のように語ったそうじゃ。

「大将たる者は威というものがなくては、誰も付いてきてくれぬ。しかし表面上だけ、いかにも威を身に付けたように振る舞ってみても、それはかえって大いなる害になるだけだ。ただ人に恐れられることを威であると心得て、家老に対しても威圧的になる必要もないのに目をいからし、言葉を荒々しくして、諫めも聞かず、自分に非があるときでも逆に居直ってごまかし、我を張り通すようなことをしていると、家老もだんだん諫言しなくなり、遠ざかっていくようになるのだ。

家老でさえそうなってしまうと、家臣末端にいたるまでびくびく怖がるだけで、忠義を尽くす者もなく、保身に走り、進んで働くこともなくなる。

このように高慢で人をないがしろにすると、臣下万民から疎まれ、挙げ句、家を失い滅んでしまうからよく心得なければならない。

本当の威というのは、まず己の日頃の行いを正しくし、理非賞罰を明確にしていれば、人を恫喝したり叱ったりしないでも、臣下万民は敬い、畏れて、上を侮ったり法を軽んずるような者はなくなり、自然に威は備わるものである」。

いかがかの。思い当たるお方もおるのではないかの?もし部下が言うことを聞いてくれなかったとしたらどうされる?上司としての権威を振りかざし、恫喝して、力によって押さえつけ、無理やり従わせようとなさるかの?

如水殿が申されるように、そんなことをしても逆効果でしかなく、人心はどんどん離れていくであろうて。

人は耳ではなく、心で人の言葉を聞くものじゃ。何となれば、同じ言葉でも誰が発するかによってその影響力がまったく異なるからじゃ。

じゃから、ほんに人に言うことを聞いてほしいと思うのであれば、まず人の心をつかまねばならぬのじゃ。尊敬され、あの人の申されることなら、と思ってもらえれば、人は自然と言うことを聞いてくれるはずじゃ。

そのためにはまず己の身を省み、日々我が身を正しく修める努力が必要なのじゃ。“威”は己を修めるところから生ずるのじゃ。

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