前回、金次郎が捨て苗を育てて1俵の収穫を得たところから積小為大を体感したお話しをさせていただきましたが、今回はその次の段階、いくつかある報徳仕法の根幹となる考え方のうちで最も大切であると言っても良いでしょう、
譲(じょう)
についてお話しを進めさせていただきます。
「譲」すなわち「ゆずる」ことです。
わたしならこの1俵はその年のうちに食べてしまって、来年もまた捨て苗を拾って同じことをして・・・、
と申し上げました。
しかしこれには毎年同じことを繰り返していても同じような収穫を得られるという前提が必要です。が、そのような保証はどこにもありません。
このような、目の前のものを貪る場当たり的な生き方では、もし飢饉のような不測の事態が発生すれば、あっという間に飢え死にです(そもそも不測の事態は、そこまで考えないから不測になるわけで、しっかり考えていれば予測に
できるのです)。
草木は春生じて秋みのり、鳥獣は一年に一度繁殖する。これは気候のめぐり合わせで、自然の道である。
そしてそれらの生活するありさまを見ると、ただ食物を奪い合うだけだ。大木は思う存分枝葉をひろげて、小さい木が伸びられなくても頓着しないし、小さい木は大木が枯れるのを待って伸びようとする。鳥獣の食い合いも、強いものは弱いものを食い、大きいものは小さいものを食うというありさまだ。
草木も鳥獣も、こうして奪い合うばかりで譲るということがない。奪い合うばかりで譲ることがないから、ただ一幹一身を養うだけで終わってしまう。
人もまた奪って譲らなければ草木や鳥獣と異なるところがない。天照大神はこれを哀れんで、推譲の道を立てられた。
すなわち、一粒の米を推し譲ってそれをまけば百倍の利益を生ずるし、一人が力を譲って耕せば数人の口を養うことができる。
この推譲ということによって、始めて人道が立ち、国家が安らかになった。推譲の道というものは、なんという偉大なものであろう。
(以下略)
訳注 二宮先生語録[3] 一円融合会刊
人が地球上で一番偉大な生物だ!なんてことを言いたいのではありません。人も草木や鳥獣と同じように自然の力に
生かされている生物の一種です。
ただ、人は己の意志で”どう生きるか”を選ぶことができるとても恵まれた存在ではあると思います。
目の前のものを貪り、今と自分だけ良ければそれで良い、という殺伐とした生き方をするも、未来に備え、希望を持って、安心かつ活力溢れる生き方をしたいと望むも、すべては自分次第なのです。
そしてもし今だけではなく、未来に備えた生き方をしたいと望むのであれば、「譲」る必要があるということです。
金次郎は捨て苗から得た収穫を、自家復興の元手にしました。つまり、その場限りで浪費してしまわず将来の希望のために譲ったのです。
貯蓄や投資と言った方が分かりやすいでしょうか。
要するに「譲」とは、今ある資源を、目の前の自己満足のためではなく、将来を見据えて有効に利用すること
と言えるでしょう。