二宮尊徳に学ぶ豊かな生き方

【尊徳】第5話 禍福吉凶

最近良いことありましたか?

と聞かれてすぐに良いことが思い浮かぶ方は幸せ。良いこと?うーん、悪いことのほうが多いねー。という方は、不幸・・・なのでしょうか!?

禍福吉凶は一つである。ちょうど米にはぬかがあるし、魚には骨があるようなものだ。まぐろの刺身を見て骨がないなどと言うのはこどもの見方で、肉の多い魚には必ず大きな骨がある。

その肉は食えるが、骨は食えない。そこで食えるのを吉として食えないのを凶とし、肉を食うのを福としてのどに骨が立つのを禍とする。

米とぬかとも同じことで、米は食えるが、ぬかは食えない。その米の飯も、いのちを養うことでは福とせられ、すえてからだの毒になれば禍とされる。野菜は食えるから吉で、雑草は食えないから凶というわけだ。

ところが、天道はそうではない。野菜のように手入れしないと消滅するものは消滅するにまかせ、雑草のように手入れしないでも繁茂するものは繁茂にまかせる。

だから天道には禍福吉凶があるわけはない。禍福吉凶は、要するに人道の立場から人間が勝手につくるものだ。

(以下略)

訳注 二宮先生語録[103] 一円融合会刊

生きていると良いことがあったり、悪いことがあったりします。それに一喜一憂するのが人間ですが、尊徳先生曰く、良いこと悪いこと、幸いとわざわい、そして好き嫌いも、実は人間が自分の望みどおりにいくかいかないかによって勝手に決めつけていることだと言うのです。

言われて見れば確かにそうです。天道すなわち大自然の力は、野菜も雑草も関係なく、益虫も害虫も関係なく、米も稗も関係なく、生きとし生けるもの全ての命を育みますし、奪いもします。

その先に人間にとって、自分にとって、という主観が入るから良い悪い、好き嫌いの区別が生まれるのです。

幼少期に田畑を流され、極貧生活を余儀なくされ、果ては一家離散の憂き目に遭った少年金次郎は当時きっと天を恨んだに違いありません。

オレが何をした、何か悪いことをしたかバカヤロウ!

と。

しかし、大自然からしてみれば何億年も前から繰り返してきている営みであって、ぽっと出の人間風情に恨まれる覚えはなく、言ってみればこれは単なる人間の「我がまま」でしかないのです。

わたしたちは普段の暮らしの中でもこうした「我がまま」によって、自らの心をマイナスにしてしまっていないでしょうか。

心がマイナスになると、思考や行動にも悪影響が出てしまいます。イライラしながら笑顔で良い仕事はできません。怒り心頭で夫婦親子仲良くなどできません。ですから、なるべくなら心がマイナスにならないようにした方が良いはずです。

「我がまま」の元は、自分自身の望みに反することを拒絶するという主観です。

出掛ける予定のある日に雨だと腹が立つ。
帰宅してかみさんが不機嫌だと腹が立つ。
良い仕事をしたのに認めてもらえなくて腹が立つ。
せっかく育てた野菜を虫に食われて腹が立つ。

自分の望みに添わないことがあるとその度に心を揺さぶられ、マイナスに陥る。なんだか損をしている気がします。

ではどうすれば良いか。

どのような状況であってもあるがままを一度受け容れてみるのはいかがでしょうか。受け容れるということは、その事象や相手のことを知るということにつながります。聞く耳持たず、頭から拒絶していては、知ることすらできません。知ることができれば、それに対して対処することができます。

雨が降れば傘をさせばいい。防水の靴を履けばいい。靴下の替えを持っていけばいい。

最近かみさん、忙しくて好きなお菓子を作る時間もないみたいだから、帰りにケーキでも買っていこう。

あの上司は認めていないのではなくて、言葉に出して褒めることをしないだけだ。

野菜が虫に食われるのは、肥料のやり過ぎが原因のようだから、来年は肥料を控えよう。

・・・

大切なのは、事象や相手を変えようとするのではなく、自分にできることで努める、備えるということです。

あるがままの天道。
それを受け容れ、
より良い未来を創るために
努力するのが人道。

「わがまま」ではなく「あるがまま」。

禍福吉凶にとらわれないことが福を招く元になるのかもしれません。

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