長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第6話 報徳(上)

皆さんは食事のあと、使った調理器具や食器を洗いますか?もちろん洗いますよね?

わしは台所には立たん!という確固とした自分をお持ちで、どなたかに洗ってもらっている方も含めてお考えください。

では、なぜ食器を洗うのですか?

過去をかえりみれば、きっと恩を受けて返さなかったことがあろう。また徳を受けて報いなかったことがあるにちがいない。

報いることを思わない者は、必ず過去の恩を忘れて、目前の徳をむさぼり受けるものだ。だから貧賤がその身を離れない。報いることを思う者は必ず過去の恩を覚えていて、目前の徳を追い求めようとしない。だから富貴がその身を離れないのだ。

なぜかといえば、恩を返し徳に報いるということは、百行の本、万善の源だからである。

まず、からだの隅々まで自由に動かせるのは父母の恩である。その恩に報いるのを孝という。

禄位があって人に敬われるのは主君の恩である。その恩に報いるのを忠という。

わが田を安らかに耕し、わが家に安らかに住んで、父母妻子を養うことができるのは、国家治世の恩である。その恩に報いるのを納税という。

穀物や野菜を産み出して、人の身を養い、安らかに生活させるのは、田畑の徳である。その徳に報いるのを農事に励むという。

日用の品物が、何でもほしい時に手に入るのは商人の徳である。その徳に報いるのを、代金を払うという。

金を借りて用を足すことができるのは、貸し主の徳である。その徳に報いるのを利息を返すという。

その他一々数えあげたらきりがない。こうしてみれば、人道とは、恩を返し徳に報いるということにつけた名前なのだ。人たるものは、どうして報いることに努めないでよかろうか。

訳注 二宮先生語録[64] 一円融合会刊

人が人の世で生きていけるのは、あらゆる恩や徳を受けているからです。誰ひとりとして恩や徳を受けずに生きている人はいません。

誰かが作ってくれた、売ってくれた米を食べ、服を着て家に住み、道具を使い、もっと根本的に言えば、親、国、地球、太陽、宇宙などそれこそ一々数えあげたらきりがないくらいのもののおかげで我々は生きているのです。誰ひとりの例外もありません。

でもそれが常態化すると、当たり前のことになって、その恩や徳を特別なこととは思わないようになってしまいがちです。

まず大切なのは、こういった日々受けている恩や徳を感じようとすることだと思います。感じればそれに報いようとすることもできるでしょうが、感じなければ報いようという心も芽生えないからです。

ですからまず目の前のことが当たり前じゃない、有難いことなんだと感じることが先だと思うのです。

ではどうすれば感じることができるでしょうか・・・。

長くなりそうなので、つづきは次回にさせていただきたいと思います。皆さんなりの感じ方があればご教示ください!

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