長谷川孝のブログマガジン

【尊徳】第15話 倹(下)

「倹」ということで前回に引き続きお話しをさせていただきたいと思います。

倹というのは、決して単に節約する、ましてやケチることを表すのではないと前回申し上げました。

ある人がいった。
一食に米一勺ずつ減らせば、一日に三勺、ひと月に九合、 一年に一斗余、これが百人で十一石、千人で百十石になります。この計算を人民にさとして、富国の基を立てたらどうでしょうか。

翁はいわれた。
その教えかたは、凶作のときにはよろしいが、平年にそんなことはいわぬがよい。なぜかといえば、凶作の 年には食物をふやすことができないが、平年には、一反 に一斗ずつ増収すれば、一町で一石、十町で十石、百町で百石、一万町歩で一万石になる。

富国の道は、農業を奨励して米穀を増産することにある。なんで減食などという必要があろうか。いったい下積みの民衆は、ふだんの食事も十分でないから、十分に食いたいと思うことこそ常ふだんの念願で、飯の盛りかたが少ないのさえ不快に思うものだ。それなのに、一食に一勺ずつ少なく食えなどということは、聞くだけでもいまいましく思うだろう。

(中略)

一般民衆をさとすには、十分に食って十分に働け、たくさん食って骨限りかせげといって、土地を開いて、 米穀を増産して物産が繁殖するように努めるがよい。勤労が増せば土地は開け、物産が繁殖する。物産が繁殖すれば商業も工業も従って繁殖する。これが国を富ます本筋なのだ。

(後略)

訳注 二宮先生夜話[160] 一円融合会刊

骨限りかせげ、とはちょっとブラックな香りがしないでもありませんが、ただ、単に目標を達成させるために目の前にあるものの節約に努めよ、ではないことはよくお分かりいただけるのではないでしょうか。

もちろん、節約しなければならない部分もありますが、基本は増やすことに置かれている、プラスの発想です。
今あるものを減らせ、ではなく、今ないものを増やすよう努めて、結果、余った分を「譲」りましょうよ、ということだと思うのです。

人の気持ちがプラスに向くかマイナスに向くかでその働きは大きく変わるというお話しを以前にさせていただいたかと思います。

とにかく節約だけして慎ましく暮らせ、では尊徳先生の言うように人はそれを聞くだけで心がマイナスに向いてしまうでしょう。

働けば働いただけ豊かになれる。

その未来への想いが人を前向きにさせ、多少辛いことがあっても耐える力となるのではないでしょうか。

関連記事

TOP