前回、お金がないと幸せになれないか、という問いかけをさせていただきましたが、いかがだったでしょうか?
そんなこと今まで何度も問いかけられている、という方もいらっしゃるでしょう。
確かにわたしも幸せとは何か、とか、お金と幸せの関係性について幾度となく考えてきた気がします。そして、「なくても幸せになれる」と、今までは特に考えもせず、理想論だけでそう言っていたような気がします。そうありたい、あってほしいという理想論です。
実際のところはどうでしょうか。
お金がなくて、着るものも住むところも食べるものすらままならない状況でもわたしは充分幸せです、と今のわたしにはとても言えません。生きているだけで幸せじゃないか、と言われる方が
いらっしゃるかもしれません。わたしは未熟だからか、お陰様でそれほど生活に困るという経験も、死ぬほどの体験をしたこともなく生きて来られたからか、生きているだけで幸せと実感できる境地までには至っておりません。
どうせ生きているなら、住むところも着るものも明日食べるものにも困らない安心感が欲しいと思います。この安心感がないところでは、幸せを感じる隙間もないのではないかと思ってしまうのです。
そう言えば、昔会ったある人が言っていました。その方は脱サラをして田舎に移り住み、そこで農作業などしながら必要な時に上京して研修の講師をしたり、田舎に受講生を迎えるかたちで研修をしたりして暮らしていた方なのですが、
「サラリーマンで働いている時は未来がどうなるかまったく分からず、不安で仕方がなかった。だけど、田舎に暮らして自分で米を作れるようになってはじめて安心して生きていける自信ができた」
と。
とても穏やかで幸せそうな雰囲気の漂う方でした。確か稼ぎはサラリーマンの時のほうが良かったとおっしゃっていたと思います。
結局、幸せとお金の関係は量で比例するものではない。お金があるから幸せだということではなく、要は幸せは自分がどう生きるか、どう生きたいか、生きていくのに何を求めているのか、という生き方の質に関わってくることなのかもしれません。
お金はその質を良くするための便利な道具。道具があれば良いものを”作り易い”ですが、なくても工夫次第で良いものは作れますし、必ずしも良いものが出来るとも限らない。
・・・。
まだ分からないことだらけです。ただ、頭で解る幸せよりも肌身で感じる幸せを求めていきたいと思います。
最後に。
尊徳先生の無利息金貸付法は、五常講とも言われていたそうです。「講」というのは無尽講や頼母子講などと同じ意味合いの、民間の金融相互扶助組織のことで、いわゆる組合のような感じでしょうか。
そして五常とは、儒教で言うところの「仁義礼智信」のことを表します。
つまり、人の徳に基づいた金融組合といったところです。
五常とお金と幸せと。これもよく噛みしめてみる必要がありそうです。